EF-S最強レンズ「EF-S17-55 F2.8 IS USM」(名前だけでシビれる今の自分はアホーだなと思いました)を何とか買うぞでも10万オーバーか 気合が必要だな とか、やっぱりバック光が必要だからストロボのトランスミッターを買うぞとか、それ以前に照明こそプロの命なのでRIFAが先だとか、サイバーショット売ってCAPLIO買ってコンパクトでも露出いじれる幸せ者になりたいなど、「仕事だから」と言い訳をして物欲に満たされつつあったのですが。
満充電で1000枚以上余裕で撮れてた30D。
本日、満充電から250枚程度の撮影で「バッテリー半分以下」状態になりました。
バッテリー
新しいのに替えましょうね
それ、最優先ですね
ハイ。
posted @ 21:37 feedback (0)

ハイ。噂の十七夜の月。たちまちづき でしたっけ?
まん丸でしょうか?微妙に右側が欠けてる様な・・・
「どうやって撮るの??」と聞かれたので一応撮り方を。
・EVを-2以下にしないと白飛びするので、露出をマニュアルで操作できるカメラでないとたぶんムリ。
・300mm以上程度の望遠で、適当に絞って300分の1秒程度で撮る(単にブレない為&その位露出を押さえ込んだ方が良いみたい)
※写真は250mm(×1.6)、F8、250分の1秒、ISO感度200、EOS 30Dで撮ってます。
コンパクトではキレイに撮れないと思いますがどうでしょうか??
posted @ 20:00 feedback (0)
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先日、でっかい花を生けたのですが、 「全然ボリュームが足りないよね」 と思い切りダメ出しを食らったのでリベンジです。 トルコギキョウとりんどうを買い足して、活け直し。 今度はどうですか?奥様。 ※高さ170cm ちなみに、本日、NTTの方(若い女性)が来訪される予定だったので、その方の為に!なんて意気込んでみましたが、活けてる最中に来訪でチャンチャン。 |
posted @ 19:38 feedback (1)
今までの生き方・人生がどうであったか
そんな事はどうでもいいから。
これからどうしたい?どうしようと思ってる?
大切なのはそっち。
堕ちていくセレブより、夢のある犯罪者の方が絶対に幸せ。
反社会的に生きてきたとしても、TATOOなんか掘っちゃったとしても、気にしなくていいから。
むしろ気にするな。
何故「そんな自分」を受け入れてくれるか? って?
君は、君がボクにしてくれた事を憶えていないと思うけど、ボクは憶えてるから。
ただ、それを返したいだけ。
ボクは君の前からいなくならないから、ボクの事、いつでもいくらでも頼っても甘えても利用してもいいから。
だから、ひとつだけ約束して。
頑張って。
なんてポエムチックに書いてみたりして。
posted @ 10:12 feedback (0)
posted @ 22:35 feedback (0)
標記の場所、青森県の農林総合研究センターとの事。
テレビで「フラワーアレンジメント体験を・・・」などと放映してましたので、家族で「行ってみるか!?」という事で行って参りました。
到着時には、フラワーアレンジ体験コーナーは終了だったのですが。
まあいろいろと。
会場にはたくさんのトルコギキョウがありました。
下の写真はお気に入りの「パレオシャンパン」というトルコギキョウ。
品のある可愛らしさ みたいなのがステキですね。

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ステキなカノジョをもう1枚♪
イイですね~
活けなくてもそのままで十分ですね。
ちなみに右のものは栽培中のトルコギキョウ。
トルコギキョウは市場での単価が高い事から、たくさん栽培されている、との事でした。

こちらはデルフィニウム。
青森のオリジナルを作る!! と大変力を入れている品種との事です。
実際、センター内のハウスでは一番多く見かけました。
「青森はデルフィに力を入れてるんですよ」
と以前にお花の先生から聞きましたが、こうして「現場」を見てみるとなるほど納得。
ちょっと勉強になりました。

最後は多数のコニファーが植えられている庭を通って散策は終了しました。
勉強にもなるし癒しにもなるし家族も喜びますが、仕事は遅れますね。
ハイスイマセン。
posted @ 23:11 feedback (0)

噂の高速艇「ナッチャンRera」です。
予想以上にでかい事でかい事。
船というか宇宙船というかホワイトベース?
ガンダムが出てきても少しも不自然でないな、と思いました。
人類の叡智は遂にガンダムを誕生させてしまいました。
悪用されないといいですね。
※ガンダムは誕生していません。念のため。
ナッチャンReraの側では、何故かとんぼが大発生。
今日は暑かったので逆立ちをしていました。
※暑い日は逆立ちをする特性らしいです(本当)
posted @ 22:53 feedback (0)

ようやく届いたEF50mm F1.4!
ある目的の為に仕入れたレンズです。早速試し撮り、という事でモヤヒルズへ。
写真、とんぼを撮ったものですが、何かお気づきでしょうか?
これ、8Mの画像を、1024×678にピクセル等倍でトリミングしたものです。
当該レンズは「ピントが甘い」などと言われていますが、何と言っても「F1.4で撮れる資質」がある訳です。
写真はF1.8まで絞った(F1代で「絞った」って言えるのもスゴイですね)もので、拡大するとわかりますが、「1024×683ピクセル等倍にトリミングした」の画でこれだけの解像度な訳です。
恐るべし「F1.4」。
イッパチニヒャクも便利でイイですが、「こういう画を撮りたい」時の単焦点レンズの破壊力を思い知らされました。
posted @ 22:41 feedback (0)
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表題の通りのイベントが!! 新聞に載っていたのを奥様が発見し、9月14日(金)、21:30点灯との事だったので家族及び友人家族と青森空港へ向かいました。 カメラをスタンバって、21時半。 写真の通りの照明が。 んー 「これでおしまいですか??」 重装備でお出でになられていた参列者の方々も同じ事を口にしていましたとさ。トホホ。 |
posted @ 22:17 feedback (0)
バンドやってた頃に感じた、「グルーヴ」と呼ばれる「それ」。
息の合う仲間と酒を飲んで楽しんで、気分が高揚した時に感じる「それ」。
スポーツ大会なんかで仲間の勝利が自分の事の様に感じられてバンザイしたり叫んだりする「それ」。
夫婦の営みで感じあい、辿り着いた時の「それ」。
他にもいろいろありますね。
仕事だと、相手に「自分の為に働いてくれた仲間」だと認められた事を感じた時の「それ」。
特定の目的・イベントなんかを、仲間と共に神経がすり減る思いをして成功させた後に分かち合える「それ」。
困った事を打ち明けて、自分を受け入れてくれた時に「ふっ」と楽になる様に感じる「それ」。
己は全てであり、全ては己である 的な万物の理を示唆するかの様なその「感覚」は誰しも感じた事があるはずです。出会った人、関わった人には全て意味があり、必然的に結ばれたり離れたりするのでしょう。
愛していたり大好きだったりする人に対しては
「出会えて良かった。ありがとう。」
って素直に思えたり、言えたり、表現が出来たりします。
でも、そうでない人。
「自分と違う人」にはそうは思えなかったり言えなかったり、逆の表現をしてしまいます。
大人は、子供に対して「スキキライするな!」と言いながら、自分では平気で「スキキライ」をしていたりするものです。自分もそう。
「みんな大好き」ってのは無理かもしれませんが、たぶん「コミュニケーション」の目的・到達点ってそんな所なんだろうな、と。
許し合い、和解し合う事。
「嫌いだ」って思ってた相手と「それ」(一体感)を感じる事ってとても大変かも知れませんが、出来た時・そこに着いた時の喜びは、愛している相手と感じる「それ」以上の格別なものですね。たぶん。
それ、解ってるから、「嫌いだ」って思っている相手がいる時、「自分を認められない感」に苛まれるのでしょうね。
でも、それを解っていると、与えられた「縁」を踏みにじったり、放棄したりする事が無いから、解ってた方がお得なのね、と思ったりする酔っぱらい男でした。(ビール2本)
posted @ 21:17 feedback (0)
買いました!明るいレンズ。
11月の花展の撮影で活躍してくれる事を見越して、今から使い込みですね。
今日は、EOS 40DとTAMRONの90mmマクロレンズを試させて頂いたので、感想。
①EOS 40D
巷では「シャッター音がパコパコとショボい音になった」と激しく叩かれていたので、何よりもこの部分を試しました。んー 30Dのそれとそんな大きく変わらない様な気が。
「カシャッカシャッ」と切れていくメカニカルな音に加えて「パコっ」って音が一緒に鳴るような感じでした。「静音化」との事でしたが、そんな静音にはなってませんね。
6.5コマ/秒は、30Dの5コマ/秒より「かなり」速く感じました。「おっ はえっ」って感じで。
30Dは常時高速連写モードで、余裕で1枚だけで止める自信がありますが、40Dだと練習が必要かな?みたいな。
ファインダーは広くなった様ですが、あまり変わった気はしませんでした。ISO感度が表示されるのがイイな、くらいですね。
ちょっとだけですが触ってみて「おお!買い換えたい!」とは思いませんでした。
家に戻って30Dのシャッターを切ってみたら「しっくりきた」ので、40D買い換えは「絶対あり得ない」状況になりました。
②タムロン90mmマクロ
マクロレンズとして非常に定評のあるタムロン90mm。カメラ屋店内なので、あまり実験できませんでしたが、予想以上に「寄れる」のと、ぼけがファインダー越しでも「滑らかだな」と感じた事、あとは当たり前ですが「明るいな」と。
マクロレンズなのでAF速度はどうでもいい設計なのか、AFは非常に遅く感じました。
「暗所でのポートレート・花マクロ」が多いので、タムロンのそれではなく、タイトルのEF50mm F1.4にした訳ですね。何と言ってもUSMだし。
USMは安価なレンズでも「静かで速い」ですね。Canon万歳ですね。
で、
③EF50mm F1.4
まだ届いていません。
以上。
posted @ 20:50 feedback (3)
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和風を狙った訳でないのですが、秋っぽく活けたらこんな風になりました。 くにゃくにゃっとした枝が何かイイですね。 写真ではわかりにくいですが、くすんだピンクの薔薇もイイですね。 クレマチスもイイ感じ。 以上。自画自賛。 |
posted @ 01:14 feedback (0)
ものごとを行う時の動機・理由が愛情に基づいている時は、行う側・行われる側、与える側・与えられる側とも幸せや楽しさを感じ、「よい関係」になるものです。
喜んでもらえたら嬉しい、好きな人の為に何かが出来る事自体が嬉しい
「愛情に基づいた行い」の根本の気持ちはそういったものでないでしょうか。
好きな人に何か頼まれると嬉しいものです。
喜びの声や言葉を想像しながらものを作ったり、好きな人・大切な人のために何かをしている時間や一緒に過ごす時間がただ楽しかったり。
最後に「ありがとう」を言われても、心から「こちらこそ」と思えて「またやりたいな」と思い、結果、ずっと続く「事業」にさえなったりします。
怒られるのが怖い、やらなければ嫌われてしまうのが怖い
行動の内容が同じであっても、動機が怖れに基づいている時は、「嬉しい楽しい」とは違います。
少なくとも「またやろう!」などとは思えません。「やっつけたから終わり」と思い、そこから離れたくなります。
「ありのままの自分で」
「思いのままに」
って言葉の意味は前者の話だと思いました。
「ありのままの自分とは酷い自分・汚い自分だから、欲や感情に逆らうことなく生きる。それが「正直」という事。オマエもそうだろう」
的な事を宣う「哀れんでもらうのが大好きな」輩も大勢いますが、そんな輩も人を好きになったり、好きな人がいたりする訳です。
だったら、そんな事言ってないで好きな人に喜んでもらえる様に何かしてみるのがよろしいのでは、と。
mixiで「誰だか知らない人」の足あとがついている時は、副業の宣伝がほとんどですが、時々、「アタシ寂しい・・・」的な人がリアルな出会いを求めて ってケースもあります。
でも、そんな人の日記なんかを眺めると、ほぼ間違いなく「哀れんでほしい」症候群の方々で。
ネットばっかりやってる「哀れんでほしい」症候群の方は、ぜひお試し下さいませ。
好きな人の為に何かする って絶対に楽しいですヨ♪
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自分にとってblogを書く時間は、いろいろと考えていた事をまとめたりして、結果、自分を省みる時間になっています。
いくら忙しくても、じっくり「考える時間」は必要だと思います。
過去を振り返っても、blogを書かない時は調子が悪い時です。
考える時間と言いますか。
「自己」の立場から「自分と周り」を見る時間 でしょうかね。
他人的な見地から自分を眺め、良いのか悪いのか頑張ったのかそうでないのか、そんな事を考える時間ですね。
↑ そういう風に書いたら、「なるほど、それは大事だね」って、早速他人の立場から見て納得してたり。
posted @ 19:51 feedback (0)
「生きて死ぬ智慧」という本があります。
般若心経を現代語訳した本です。
般若心経では「空」を説いています。
「色即是空(かたちあるもの、一切は「空」である)」の「空」ですね。
現在の科学では、あらゆる物質は粒子が集まっている姿だ、とされています。
小学生でも解る「常識」になっています。
即ち、自分自身も、他の人も、人でない物もみんな同じ。
「自分」と言われる「空間」に、(他の空間より)粒子が多く集まっている「現象」に過ぎない訳です。
「自分」も「他人」も同じように粒子の集まり。
集まるべく・つながるべくしてつながった粒子は、大きさを変えて家族や社会、世界、宇宙を構成しています。
「自分」とは「粒子の集っている空間」を「これが自分」と感じる錯覚。
視聴覚・嗅覚・味覚・触覚や、意志・知識によって「これが自分」と錯覚しているだけです。
素粒子物理学では、そんな推論から仮説を立て、実験によって実証する事で理論を完成させていくそうです。
では、視聴覚・嗅覚・味覚・触覚や、意志・知識を取り払った「自分」は何処にいるのでしょうか?
釈尊はその「場所」を「空」と呼んでいますが、この「仮説」が、物理学によって逆説的に証明される日は遠くない気がしました。
真実がどうかは「知りません」が、もし、今の世界の存在が「粒子の集まりによって起きている現象」が全て、だとしたら虚しいと思います。全ての存在の「意味」が無い事になります。
その「世界」では人を殺す事さえ悪事ではない代わりに、愛や幸せ、アツくなる事すら「錯覚」だから。
粒子の集まっている「空間」とは違う場所に「自己」は存在し、「自己」の思いと使命によって、粒子的な存在である「自分」を意のままに操る事が出来る権利を与えられていて、それは「魂」と呼ばれていて。
「自己(魂)」から見た「自分(粒子的存在)」は、「他人(粒子的存在)」とひとつながりで同じ様な存在。
自分も他人も同じように愛し、共により良く生きられる様に「自分」を操る、という事。
家族や友達、出会った人々とは、「縁」によって必然的に結ばれた「自分とは違う」存在。
それらは、各々の「自己(魂)」が結ばれているから、必ず物質的空間で起こり得るという事。
生あるものは全て魂を持っていて、即ち渡しもまた「お花」に出会い「お花」とお付き合いしているのもまた「縁」。
恐らく、お花は「汚れのない完全な愛の形」でしょう。
posted @ 10:53 feedback (0)









