「生きて死ぬ智慧」という本があります。
般若心経を現代語訳した本です。
般若心経では「空」を説いています。
「色即是空(かたちあるもの、一切は「空」である)」の「空」ですね。
現在の科学では、あらゆる物質は粒子が集まっている姿だ、とされています。
小学生でも解る「常識」になっています。
即ち、自分自身も、他の人も、人でない物もみんな同じ。
「自分」と言われる「空間」に、(他の空間より)粒子が多く集まっている「現象」に過ぎない訳です。
「自分」も「他人」も同じように粒子の集まり。
集まるべく・つながるべくしてつながった粒子は、大きさを変えて家族や社会、世界、宇宙を構成しています。
「自分」とは「粒子の集っている空間」を「これが自分」と感じる錯覚。
視聴覚・嗅覚・味覚・触覚や、意志・知識によって「これが自分」と錯覚しているだけです。
素粒子物理学では、そんな推論から仮説を立て、実験によって実証する事で理論を完成させていくそうです。
では、視聴覚・嗅覚・味覚・触覚や、意志・知識を取り払った「自分」は何処にいるのでしょうか?
釈尊はその「場所」を「空」と呼んでいますが、この「仮説」が、物理学によって逆説的に証明される日は遠くない気がしました。
真実がどうかは「知りません」が、もし、今の世界の存在が「粒子の集まりによって起きている現象」が全て、だとしたら虚しいと思います。全ての存在の「意味」が無い事になります。
その「世界」では人を殺す事さえ悪事ではない代わりに、愛や幸せ、アツくなる事すら「錯覚」だから。
粒子の集まっている「空間」とは違う場所に「自己」は存在し、「自己」の思いと使命によって、粒子的な存在である「自分」を意のままに操る事が出来る権利を与えられていて、それは「魂」と呼ばれていて。
「自己(魂)」から見た「自分(粒子的存在)」は、「他人(粒子的存在)」とひとつながりで同じ様な存在。
自分も他人も同じように愛し、共により良く生きられる様に「自分」を操る、という事。
家族や友達、出会った人々とは、「縁」によって必然的に結ばれた「自分とは違う」存在。
それらは、各々の「自己(魂)」が結ばれているから、必ず物質的空間で起こり得るという事。
生あるものは全て魂を持っていて、即ち渡しもまた「お花」に出会い「お花」とお付き合いしているのもまた「縁」。
恐らく、お花は「汚れのない完全な愛の形」でしょう。
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