
先日は猿賀神社で蓮、昨日は合浦公園の睡蓮を撮りました。
どちらも池の中に生えるので、近くまで寄れないものがほとんど。
だから、普段はあまり使わない望遠レンズが非常に役立ちました。
が、しかし、
「望遠で撮った方が撮りやすい」ものは、誰もが望遠で撮るでしょう。
自分だけの写真を目指すのであれば、「撮りやすい」という理由による道具の選択は避けたほうが良いかもな と思いました。
思っただけなのでまた望遠付けて合浦公園行ってるかも知れませんが。アハハ
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ふと思いだした「泥中に咲く」。
3年くらい前、花展で生けた花のタイトルです。
「泥中」は、そもそも蓮にかかる言葉ですが、当時、「泥」を「壊れたパソコン」で表現しました。
「IT」は便利な様で何かおかしい現代社会の象徴。
ITのステージは携帯からスマートフォンへ飛躍。「いつでもどこでも誰とでも繋がれる」反面、本来帰る場所・団欒の場所である「家庭」の姿が壊れつつあります。
「知識」もまたいつでもどこでもネットで調べることができ、個人が知識を持つ事の価値が希薄にもなりました。
直接的な業務での利用も進み、本来の業務を憶えるのではなく、「IT機器の操作方法を憶える事」が仕事となり、人間はオペレーションをこなすだけ。「仕事がデキない奴」になった事を、「効率的だ」「良くなった」と喜ぶ社会人。
はっきり言って狂ってます。クレイジーです。
進化を遂げる過程で歪んでしまった現代社会。
その中においても「花」の普遍的な美しさは変わることが無く。
いくら人間が狂っても、花は本当に大切なもの・大切なことを諭してくれる
と
そんな内容だったなー と思いつつ、撮った蓮を眺めると、まあ そのまんま。
自分が生けた花より、よっぽどわかりやすく「泥中に咲く」事の意味を語りかけてくれるようです。
根を断った花より、根から生えている花の方がずっと強い力があるから。当然の事。
自分自身、根付いているのか
自分の根っこは何なのか
花は咲いているのか
どんな花なのか
迷いは無いつもり。腹は決めているつもり。
でも本当にそうなのか、今一度確かめろ と。
厳しくも向かい合うべき「自己」について、語りかけられます。
うん やっぱり 泥の中から咲く花、力持ち です。
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何が本当に良いもので、何が悪いものなのか。
例えば 写真を習ったり見たり撮ったりするうちに、良い写真を見分ける目が養われたりします。
んでも、その「良い」の基準はうまく理屈だてる事が出来ません。
何故か。
それは、「こうだから良い」「こうだから悪い」といった情報は、本来良い悪いを判断する為の「こころ」、いわば「感性」にとって余計なものでしかない からです。
人間の深い部分にある「良いものを良いと感じるこころ」は誰しも似たようなものなのに、「誰々がいいと言ったからイイ」「ここがこうだからイイ」「有名な人のものだからイイ」「人それぞれだ」といった情報や知識によって、正しい判断・正しい感覚が阻害されている と。
「いいと感じるからイイのか?」
その通り。
ただ、その「いいと感じる」感覚が、素直なこころから湧き上がったものなのか、何らかの理由や条件に当てはまるからいいと感じたのかでは大違い。後者は「感動」ではなく「錯覚」でしょう。
純粋なこころは誰しも持っているもの。不要なものが覆い被さっているだけ。
時に、不要なものを取り払って、純粋なこころからの声を聞き、自分と向き合う。
誰しも欠点はあり、たくさん悪い事をしているもの。だから、決して卑下する事なく。
純粋なこころで向き合う相手、見える世界は、良いものは輝いていて温かく、悪いものは暗く淀んで冷たいもの。
少なくとも自分はそんな風に思い、感じます。
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